1番印象に残っている試合

伊藤華英

スポーツジャーナリスト / 水泳元日本代表

2008年4月に開催された日本選手権100m背泳ぎの決勝レースが私にとって1番のレースだった。良いレースだったわけではないが、最も印象に残っているレースだ。
それは、「絶対行ける」と思っていた2004年のアテネオリンピック選考会での失敗から這い上がり、オリンピック出場権を勝ち取ったレースだったからだ。

競泳では、オリンピックの年に行われる日本選手権がオリンピック選考会を兼ねている。そこで2位以内に入り、さらにオリンピック派遣標準記録を突破するとオリンピックに出場できる。
当時日本には、女子背泳ぎ世界トップレベルの選手が多くいた。レベルが高い故に注目度も高く、決勝が始まる前には「マーメイドたちの戦いが始まる」なんてコールされていた。毎年開催される世界大会のチケットを勝ち取るために、競技レベルは年々上がり続けていた。

世界大会のチケットを争うのはいつも3人。
私と中村礼子、寺川綾。
奇しくも2001年の世界選手権で3人揃って世界大会デビューしてから、当時世界でも上位3人に数えられた私たちが2枚の世界大会出場権を賭けて戦うという、世界でも類を見ない熾烈な国内競争が始まった。
今でこそ、彼女たちとのライバル関係があったからこそ、私は真剣に水泳と向き合うことができたのだと思えるが、当時はそこまで考えられる余裕もなかった。

そんな熾烈な状況の中で開催されたのが、アテネオリンピック前年の2003年に開催されたバルセロナ世界選手権だ。私は200m背泳ぎで日本人最高位の5位入賞を果たした。
オリンピック前年の世界選手権はプレオリンピックと呼ばれているほど、オリンピックの前哨戦という意味合いが強い。バルセロナから日本に帰国すると新聞の一面に「アテネの本命はこの子!」と私が大きく載っていたことを強く覚えている。

代表入りを果たすと、取材される機会も増える。取材は元々嫌いではなかったし、注目されることはとても嬉しかったのだが、アテネオリンピックが開催される2004年頃から、注目されることが嬉しいと思えなくなっていった。
2001年に初めて日本代表に選出された時も、私は「水泳が好き」という純粋な気持ちを持って水泳と向き合っていたつもりだった。しかし、現実には「水泳が好き」という純粋な気持ちに集中し続けることはとても難しかった。16才から18才という多感な時期に多くの人に囲まれ、取材されることによって、自分が普通ではないこと、自分の立場が他の高校生と違うことに否が応でも気がつかされた。取材を受ければ受けるほど、「水泳が好き」という以外の気持ちが芽生え、自分を見失った。自分を見失った状態であっても、練習の強度は増していき、精神的にも身体的にもいっぱいいっぱいになっていった。

現役を引退した今、当時を振り返るとどうして「やってやろう」という気持ちにならなかったのか不思議に感じるが、当時は心身ともにそんな余裕はなかった。
アテネの本命として期待されるようになった世界選手権以降は、今まで経験したことのない気持ちに潰されていった。ライバルたちの頑張りに対してもっと頑張ろうと思うのではなく、「もっとやらなくては!」と焦る気持ちでいっぱいだった。練習は得意だったし、水泳も好きだったから練習でのパフォーマンスは最高だった。気持ちとは裏腹に身体は伸び盛り。フィジカルは、完璧だった。

練習のパフォーマンスが最高なので、周囲のオリンピックへの期待は増すばかり。身体の状態に反して自分の気持ちがついてこないことを頭ではわかっていながらも、気付かないふりをして自分を騙し騙しやっていた。こういった気持ちのもやもやはみんなも経験していることなんだと。

しかし、神様は騙せなかった。

オリンピックを賭けた選考会で、オリンピックの重圧を思い知らされる。
「帰りたい。逃げたい。」「なんでこんなことしなきゃいけないの?」
思わず弱音が出てしまう精神状態では、当然結果もついてこなかった。オリンピックの本命と言われながら、結果は派遣標準記録を突破できず、3位と惨敗だった。

「恥ずかしい」
初めての感情だった。自分自身、自分を恥ずかしいと思うことがあるなんて思ってもなかった。

急に恥ずかしくなった。
1位2位に入った、礼子ちゃん、綾は輝いていた。必死に自分のベストを尽くし、必死のレースで、代表権を獲得していた。

わたしは、目の前のチャンスをものにできなかった。
ただ初めて心からライバルの努力を讃えることができた。
「絶対オリンピックに行きたい」そう思えるようになった。
わたしのアスリートとしての人生は、アテネオリンピックに落選したこの瞬間に始まった。

そして、本当の意味でアスリートとして挑んだ北京オリンピック選考会を兼ねた2008年4月の日本選手権。わたしは、100m背泳ぎを日本新記録で優勝し、北京オリンピック行きのチケットを手に入れることができた。200m背泳ぎも2位に入り2種目の日本代表となった。

自分の道は自分で決めなければならない。
自分で決めた道であれば、やり抜くことができる。自分で決めた価値がそこにあるから。
わたしにとって、自分の道を決めたのは2004年アテネオリンピック選考会の最悪のレース。
2004年のレースがあったからこそ、自分の道を決めることができた。
自分の道を決めたからこそ、やり抜くことができ、2008年に思い出に残る最高のレースをすることができたのだろう。

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